ご由緒

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國片主神社

壱岐のへそである国分に鎮座する
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は、
嵯峨天皇八百十一年の創建とされる
歴史ある神社で、式内社にも指定。

主祭神は少彦命(すくなひこのみこと)で、
菅原道真も祭っており、「国分天満宮」
の名でも知られています。

学力向上や豊作祈願、
厄除け、健康長寿などに
御利益があるとされ、
境内に多彩な願掛けが
あることでも有名です。

ご由緒

【國片主神社由緒】
  旧 号 國分天満宮 國分天神
  祭 神 少彦名命(國造り、病を治す神)
  相 殿 菅贈相國(学問の神)
  例祭日 旧八月二十五日
   鎮 座  弘仁二年(八百十一年)

【由緒沿革】
当社は延喜式内二十四座の内なり。壱岐島大七社の 一ツなり。

國片主と名付けられたのは、遠き神代に於いて少彦名命が大國主命と共に國土を二分して経 営され給うに依る。

又古来國分天満宮、國分天神と称するのは学問の神菅原道真公を祀るが故なり。嵯峨天皇弘仁二年(八一二年)十月朔日、日輪の神勅を承けて鎮り給う。朝廷より神階を進められ給う。(千百年前)

即ち文徳天皇仁寿元年正六位上(千百年前)
後九代の各天皇より九回に亘り次々各一階づつ増し奉らる。

一、 永禄五年、宝殿再建、波多藤童丸(一五六二年)
一、 慶安四年、宝殿再建、松浦肥前守鎮信(一六五一年)
一、 承應三年、拝殿造替、大宮司長田十太夫(一六五三年)
一、 寛文三年、宝殿造替、大宮司長田(榊原)式部(一六六三年)
一、 延宝四年、木鏡、石額奉献、國主 源鎮信(一六七六年)
一、 元禄十四年、石鳥居造替、(一七〇一年)
一、 宝永六年、御殿造替、(一七〇九年)
一、 天和三年、神輿造替、

(社記)に依れば当社古くより朝廷の崇敬厚く毎年祈年祭 には幣帛料を奉られ平戸領主壱岐を領有後益々崇敬 加わり國主直参社となり名代参向せり。
一、 明治七年五月村社に列せらる。
一、 大正元年十一月神饌幣帛料供神社に指定せらる。

【御神徳】
〇少彦名命の御神徳について
・大国主命と共に国都の経営にあたった。土地の神・農耕の神。
・医療の神、薬の神とも言われ現在でも医学を志す人からの信仰も厚い。
・醸造(酒)の神、酒は百薬の長ともいわれる。

〇菅贈相国(菅原道真公)の御神徳について
・学問の神
・牛の神(菅原道真公は丑年に生まれ、丑年に亡くなる)

壹岐神社誌より

東岸の芦辺港と、西岸の湯本温泉を結び、壱岐の中央部を東西に走る道路の真中あたり、国分郵便局の正面にあり、近くには国分寺がある場所。

当社は、古来、国分天神と呼ばれ、唐土から石舟に乗ってやって来た唐田天神を祀っていたが、天満宮との混同により国分天満宮となったもの。

その天神が、天手長比賣神社に比定され、橘三喜による延宝の式内社査定では國主神社に比定されたが、橘三喜はその理由を示しておらず、当社が國片主神社である証拠は何処にもない。

ただ、当社が壱岐七社・民間大七社の一社であり、古来より崇敬の大社であったことは確かで、いずれかの式内社であったことはうなずける話である。

となると、國片主神社であっても不思議ではない。なお、七社とは、白沙八幡・興神社・住吉神社・本宮八幡・箱崎八幡・國片主神社・聖母宮のことを指す。

当社の社名「國片主」は、祭神・少彦名命が大国主命と二人で、国土経営を行ったことによる。

神紋は旧天満宮ということで、梅鉢紋となっている。